「エネルギー」の言語化はナンセンスだと思う件

谷山です。

久しぶりのブログ更新です。

生徒さんからは

「ここんとこブログやる氣ないですよね」

なんて言われたりしてましたが、別にやる氣が無かったワケじゃないんですよね。

ちょっと思うところがあり

「このままブログ書いてて良いもんかな~」

なんて考えてました。

そんで生徒さん達以外でも

「最近は更新をあまりされてないようですが、これからもブログの更新を楽しみにしています」

なんてお声をちょくちょく頂いていました。

ありがたい限りですよね。

そんなお声を頂けるぐらい楽しみにしている人がいるなら・・・・・・

と色々考えていたんですが、やっぱそういう「応援してくれる声」ってパワーを与えてくれますよね。

そういうお声を聞きながら自分の中で問答を繰り返していくウチに今まで見えてなかったモノが急に見え始めました訳です。

いわゆる「氣付き」ってやつです。

一つの事に関して氣付きを得れると「今まで滞っていた場所」から一氣にジャンプする感覚があり、心身がとても軽やかに感じます。

いや~、ブログを楽しみにしてくれてる人達の声にパワーを貰う事が出来ました。

ありがとうございます^^

ある程度しっかりと線引きをしながらもブログの更新を復活させたいと思いますので、これからもよろしくね♡

息子が発する「怒り」のエネルギー

さて、そんな訳でブログを書くにあたっても初心に戻ったつもりで書いていこうと思う訳ですが、このブログで初心つったら「氣エネルギー」についての事だと思います。

まぁ、「氣」なんて年がら年中感知してますから今さら取り立てて書く事もないんですが、先日息子が

「ああ~、ちっくしょう!騙された!!」

なんて言いながら家に帰ってきました。

どうしたのかを聞いてみると、スマホの修理に関して3か月待てば修理代が発生しない、と案内されて3か月待ったのに修理代として20,000円請求された、と怒っていました。

細かい事はよく分からないのですが、端末代のローンの関係でそんな案内をされたらしいです。

そんで案内された内容と違ったけど、もう3か月も前の事だからその案内した人も誰だか分からないし、解約しても修理代は発生する、との事でした。

僕自身も内容がよく分からないまま怒ってる息子の愚痴を聞いていた訳ですが、息子からけっこう強めな「怒り」のエネルギーをビリビリと感じます。

「怒り」っつーのは人間の持つ感情の中でも特に強いエネルギーですから、感覚のスイッチをoffっていても拾う事はよくあります。

なので今まで「怒り」のエネルギーはメチャクチャ拾ってきました。

息子の話を聞きながら

「ああ~、コイツ結構怒ってんな~」

なんて思ってた訳です。

ただね、息子が発する「怒氣」は今まで感じた他の怒氣とは少しだけ違い、何と言うか少し繊細な感じがしました。

ウチの息子は「男っぽい奴」というよりは少しおとなしめで、どちらかというと中性的な印象が強い奴です。

怒氣など発する事が少ない奴だったので氣付きづらかったんですが、何と言うか氣が頭頂部に昇る「怒氣」に交じって悲しい感情というか震えるような波長が交っていました。

「ふ~ん、コイツはこんな怒り方すんだな~」

と新たな発見に胸を躍らせながら息子の愚痴を聞いていました。

そして愚痴を聞き終わってから

「お前って怒ると泣きたくなるタイプ?」

と聞くと

「その通りだけど今までの話聞いててそこ重要?」

と聞き返されてびみょ~うな空氣になってしまいました・・・・・

エネルギーを言語化するのはナンセンスだけど・・・・

とまぁ、そんな事がありまして改めて

「人の感情ってのは面白いな~」

と実感します。

さっきも書いた通り息子は「怒って」いた訳です。

そして、「怒る」というのはまぁ誰でも経験した事はあるかとは思いますし

「あの人、すごい怒ってるよね」

なんて会話も普通にします。

感情のエネルギーなんてのはほんと人それぞれで「怒り」という感情一つとっても「他人と同じ」という事はあり得ないんです。

息子の様に「怒り」の中に悲しい感情が交る事もあるし、ただただ炎の様なエネルギーが頭頂部から更に上部に昇るケースもあります。

同じ人、同じ感情でも状況によって波長は変わったりもするので本来であれば一言で表現するのは不可能なんですよね。

でも、言葉にすると「怒ってる」という風にしか表現できなですし、今回の様に人に説明するのにはどうしても言語化が必要になってきます。

こう書くと当たり前に見えると思いますが、その当たり前の中に盲点があります。

それが「意味の固定化」です。

「言語」っていうのは何かを表現するのにとても便利ではあるのですが、意味が固定化されてしまう恐れもあったりする訳です。

「怒り」と聞くと「怒り」としか受け取れない、みたいな感じですね。

言葉ってのは当たり前に使うモノですから、そこまで考えて言葉を受け取ってる人は少ないと思います。

固定化されてるモノは「そういうモノ」としてそのまま受け取ってしまうのは表面的な部分しか見れないので僕は無粋だと思いますし、問題を解決しようとした時に浅い部分しか見れてないとその部分しか解決できません。

見えてないモノを弄るのは不可能ですからね。

普通に生きてるのなら感情の様な目には視えないモノを言語化するのは一般的な事ですが、エネルギーワークなどを生業にするのであれば、言語化する事のリスクは頭の片隅にでも置いておくのが良いかな~、と思います。

言葉って便利だけどそういったリスクも知っておいた方が良いと思い記事を書きました。

「言葉」の背景にある味わい深い感覚も大切にしていきたいですね!

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