停滞する人に共通する「視点」の問題

谷山です。

世の中の多くの人は

「もっとより良く行きたい」

と思ってると思います。

中には

「今が100%満足だよ」

という人もいるかもしれないけど、僕も含め多くの人はやっぱり

「もっとこうなりたい」

「もっとこうしたい」

という思いがあるんじゃないかな~、と感じます。

これはある意味で「成長欲求」とも言えますよね。

だから世の中には自己啓発関係の書籍が溢れていたり、スピリチュアルなワークなんかがたくさんあるんだと思います。

需要があるから供給が増える、というのは必然です。

ただ、僕が思うに「もっと良くなる」という事を高い視点で見た時に、最初に必要なのは

「正しく見る」

という事だと思います。

まずは何事も「正しく見る」という事を追求し続けなければ、一見「良く」なったと思っても成長は高止まりしてしまう恐れもあります。

なので今日は「正しく見る」という事はどういう事なのかを書いてみたいと思います。

では行ってみよう!

正しさは時代によって変わる

「正しく見る」というと、多くの人は

「自分は正しく見れている」

と思うと思います。

でもその「正しさ」とは何でしょうか?

正直、これは時代や状況によって変わったりします。

昭和の時代は粉骨砕身、仕事に没頭するのが「正しい」と言われてた時代もありますし、もっと昔になれば名誉の為に人を殺すのが正しい、と言われてた時代もあります。

無礼討ちじゃ~

でも、今の時代はどちらも「正しい」とは言い難いですよね。

こういった時代や環境によって変化する「正しさ」は本当に正しいと言えるのでしょうか?

まぁ、ある意味で正しくもあるとは思いますが、より本質的な正しさとはズレがあると感じるんですよね。

これらの「正しさ」は時代や環境というフィルターが知らぬうちに自分の中に埋め込まれて、それを元に「正しい」と判断している訳です。

だからその価値観が時代に合っている時は正しいと感じるかもしれませんが、時代が変わったり環境が変化すると、その正しさは古い価値観になってしまい「正しくない」という風に変わってしまいます。

そういった時の流れによって変化する「正しさ」は恒久的に正しいと言えるのでしょうか?

時代や環境によって変化しない正しさ

ではいつの時代でも変わらない「正しさ」とは何でしょうか?

僕個人で言わせて貰うとそれは言語化できないものだと思っています。

僕らはいつも言葉を使って生きてます。

言葉がなきゃ人と意思疎通がしずらいから当たり前です。

でも、その便利な「言葉」ってのはさっき書いたような「時代や環境」によって埋め込まれた、ある意味でフィルターを通して出てきた言葉なんですよね。

フィルターを通すとその時々にマッチした言葉は出てくるので、社会で生きていくのには絶対必要です。

でも、フィルターを通して出てきた言葉自体が僕らが「正しく見る」(もうめんどくせーから今後は正見で表記します)という事から遠ざけてしまうような氣もするんですよね。

では、時代に左右されない正見とはなんでしょうか?

それは「感じる事」だと僕は思います。

痛みを感じたら「痛い!」とそれを表現するのではなく、ただただ感じる。

嫌な事があったら

「ついてないな」

と表すのではなく、その時に感じている感覚を感じ続ける・・・・・

これが僕が思う「正見」の第一歩だと思っています。

「感じる」という事はいつの時代も人間が受容してきた感覚です。

赤ん坊は言葉を知らないのでただただ感じる事しかできません。

動物も危険を感じて、身を隠したり逃げたりします。

最も原始的なその「感覚」というものを言語変換せずに感じ続ける事こそが時代に左右されない「正しさ」なのかなぁ、と思う訳です。

正しく見るから変えられる

多くの人は言語を使う事で表現します。

「自分は〇〇だからダメなんだ」

「あいつのああいう所がいいところなんだよな」

など日常的に言葉で表現する事になれています。

でも、それはある意味で「条件付け」とも言えるんですよね。

レッテル張りとも言っていいかもしれません。

「自分は〇〇だからダメなんだ」

という人がいたとしたら、その人の「〇〇」の部分を取ったらどうなるんでしょう?

一時は問題が解消されたように感じ、清々しさを覚えたりするかもしれません。

それはそれで良いのですが、自分をダメだと感じている根本のモノ自体が無くなった訳ではないので、何かの変化があると

「自分は××だからダメなんだ」

と思ってしまうかもしれません。

真の問題解決とは、その根本にある言語化できないエネルギーを解消する事から始まるんですよね。

もっと言うと

「正しく見れている(感じれている)から別の選択が出来る」

とも言えます。

でも、多くの場合はその根本のエネルギーを見ようとしません。

何故なら、そのエネルギーってのはその人の深いところにある、根源的なノイズだからです。

見ようとしてもそのノイズに引っ張られて飲み込まれてしまい、見る事が難しくなってしまうんです。

氣功的に言えば

「氣が足りてない」

とも言えます。

なのでこの場合は

・氣を増やす

・観察力を高めて飲み込まれないようにする

というシンプルな解決方法が効きます。

問題を言語化しない場合、抱えている問題にとって外的要因は存在しないので解決方法もとてもシンプルになるんですよね。

まぁ、いきなり出来るか?と言われれば難しいかもしれませんけど・・・・・

本当の正見

という事でここまで「正見」について書いてきました。

「正見とは言語化せずに感じる事である」

という事でしたが、実は更にその先により正しい見方があります。

それは

「感じる事も手放す事」

です。

さっきから書いてる「正見」とか「観察」ってのは、言い換えると

「自己の滅却」

とも言えます。

う~ん、仏教的ですね~

さっきまでの流れだと

「感じている自分」

というのが存在するので実は本当の意味では「正見」ではありません。

その「感じている自分」「感じようとしている自分」すら消す事が本当の意味での「正見」です。

僕らの日常的な場面で言うと、何かに超集中している時って呼吸している事すら忘れて呼吸をしているし、命の危険が迫っている時なんかは思考なんか出てこなくて必死に身を守る行動を取ります。

こういった瞬間こそが「自己が滅却」されている瞬間と言えるのだと思います。

ただ、こういった瞬間を意図的に作って四六時中その状態でいる事は僕は出来ません。

目指すところではあるかもしれませんが

「それって人間って言えるのかな?」

とも思ってしまいます。

最初に書いた通り、僕は

「もっと善くなりたい」

と思って生活しています。

なので本当の意味での「正見」はまだまだ未達なのかもしれませんが、それでいいとも思っています。

まだまだ修行中、って事ですね。

 

・・・・・・という話は置いておいて、ここまでをまとめると

・正しく見るとは時代や環境によって変わる

・視点を上げた「正見」とは感じる事

・更に視点を上げた究極的な正しさは自己の滅却

という事でしょうかね。

最終到達地点はあれですが、何にせよ

「もっと良くなりたい!」

「もっとこうしたい!ああしたい!」

と思う人は自己のフィルターを出来るだけ外して、物事を正しく見る、という事を学んでみるのが良いと思います。

正しく見れてくればくるほど物事は簡単に動かせるようになっていきますからね!

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