谷山です。
先日、練習会を行った事は記事に書きましたが、その時の打ち上げでちょっと面白い話が出がでました。
その時の話の内容は
「欲が無くなると人間は幸せになるのか?」
というなんだかちょっと重たい感じもするテーマでした。
その事について僕なりに感ずる所を書いてみたいと思います。
超能力が欲しい!と願ってる生徒さん
打ち上げに参加された人は練習会の参加者の半分ぐらいの人数でしたがなかなかに盛り上がった会となりました。
そこでとある生徒さんが
「自分は超能力を使えるようになりたい」
という事を話したそうです。
それを聞いた他の人も「超能力」というワードが氣になったようで、一部で「超能力談義」が行われてたみたいです。
「超能力談義」とか普通に書いてますけど、まぁあんまり大っぴらに世間で話せる内容じゃねえよなぁ(笑)
打ち上げとかでこういった話が出ると、最終的には
「先生!どうすれば超能力を身につける事が出来るんですか?」
と僕に話が回ってくる訳です。
確かに仙道やヨーガのトレーニングで氣脈やチャクラの開発を行でば、それに伴っていわゆる「超能力」と呼ばれるモノが発露する事もあります。
でも、僕からしたら「超能力」って「行」を行ってれば発露する「結果」であって目指すモノではないと考えてるんですよねぇ(ここら辺についても思うところがあるので別で記事を書きます)
そこで超能力を欲しがってる生徒さんに
「どうして超能力が欲しいのか?」
という事を聞きました。
その答えはプライベートな事なのでここでは書きませんが、結論的には
「超能力を身につける事で自分に満足したい」
というような理由でした。
そこで僕は
「じゃあ、超能力が無くても今の自分に満足できれば超能力はいらないですよね?」
と聞くと
「そうですね、超能力を得る事で自分に満足したいと思ってるだけですね」
と答えてくれました(素直でまっすぐな人っす)
「じゃあ、(今の自分じゃダメだ)という欲がなくなれば超能力はいらないですね」
と僕が返すとそれを聞いたMさんという女性がとある発言をしました。
欲がなくなるのはつまらないのか?
「そんなんじゃつまらないじゃない!」
僕の発言を聞いたMさんがすぐさま反応してきました。
ちなみにMさんは僕とは10年ぐらい付き合いはあるのですが、ウチの生徒さんではなくこの日は練習会にも参加してない人です。ただ打ち上げに遊びに来ただけの人ですw
「でも自分の中に欲求がなくなるって事は変化を求める欲も無くなるんだからそれはある意味で満足なんじゃない?」
と僕が返すと
「私もとある才能が欲しいと思ってる。だから超能力でも何でも身につけられるならどんどん身につけた方がいい。どんどん欲を満たした方が楽しい。」
と意見が真っ向からぶつかり合います。
僕は
「自分に対する欲が無くなれば楽になる」
みたいな感じの意見に対してMさんは
「自分に対する欲はどんどん満たすべきだ」
というような感じの意見です。
あなたはどっちの考えがしっくりきますか?
「修行」というモノの持つ性質
話は少し変わりますが、ウチは「ヨーガ」と「仙道」をベースとしたトレーニングをお伝えする場所です。
「トレーニング」とは言ってますが、これはれっきとした「修行」です。
「修行」をして目指す場所は行きつくところ「悟り」です。
ただ
「修行をして悟りを得るぞ!」
と言っても「悟り」までの道のりは行法や流派によって様々です。
ここでは超簡単に説明しますが、「ヨーガ」は出来るだけ「欲」を捨ててその捨てきった先に「悟り」を求めます。
そして「仙道」は「欲」をどんどん満たして「悟り」を求めます。
全く逆のベクトルです。
あくまでイメージですが、ヨーガ行者は瘦せていて静かに座っているようなイメージを持つ事が多いですよね。
そして「仙人」はふっくらしていて笑顔のイメージが多かったりします(酒とか飲んでたりする俗っぽい仙人もいます)
こういった方向の違いは行法が生まれた当時の国の価値観や時代背景などで変わった訳ですが、今回打ち上げで話した事と同じだな~、と思いました。
満たせば満たすほど楽しくなる「欲」と苦しむ「欲」
さて、ここまで
「欲は無くした方が良いのか、満たし続けた方が良いのか」
というような事を書いてきましたが皆さんはどう思われますか?
僕的にはこの「欲」というモノを分類して考えた方が良いと考えていて、欲について考えるときは「中村天風師」の話をいつも思い出します。
天風氏は「欲」を肯定していて、人間の欲は進化向上の為に欠かせないモノだと言っています。
ただ、欲には二種類あって
・求めれば求めるほど愉快になり楽しくなる。そして人の喜びが自分の喜びとして感じられるような欲求が一義的欲求
・求めれば求めるほど苦しく煩悶として、その欲を満たしたとしても喜ぶのが自分しかいない欲求が二義的欲求
という風に分類しています。
この定義で言うと、最初に出てきた
「超能力が欲しい」
という欲求は二義的欲求に分類されるんですよね。
もちろん生きてく為には二義的欲求も必要です。
でも二義的欲求は燃やせば燃やすほど苦しみを生む可能性が高いです。
おいしい物を食べたとしても、しばらくすればもっとおいしい物が食べたくなったり、大金を手にしても更なる大金を求めたり・・・・・・
地位や異性や能力なんかも全てにおいてですが手に入れても手に入れても「もっともっと」とキリがなくなり、手に入るまで苦しむ事が多くなったりする訳です。
そんで手に入っても「もっともっと」が出てくる・・・・・
なので「二義的欲求」に関してはバランス感覚が重要になってきます。
それに反して「一義的欲求」は燃やせば燃やすほど楽しくてワクワクしてきます。
その欲を満たせば満たすほど自分も人も喜んで更に楽しくなってきてどんどんワクワクしてくるから更に燃やしてもっと楽しくなって人も自分も更に喜ぶ・・・・・
みたいなイメージですかね。
ただ、この「一義的欲求」ですが、物質まみれの脳みそでは理解が追い付かない場合があります。
現代を生きる多くの人は「二義的欲求」を満たす事に全力を傾けているように見えます。
なので、僕はまず「二義的欲求」をある程度以上削る必要があると考えてます。
そして「二義的欲求」を削っていく(満たしていく)為に「行」がある訳です。
精神を落ち着かせ、自分の内部を見ていくと段々と「自我」が薄まります(二義的欲求は自我の反映が強い)
そして「本然の自性」と呼ばれる人間の本質的な部分が強く表に出てきます。
この「本然の自性」が持つ欲こそが「一義的欲求」なんだと僕は考えます。
そんな話を打ち上げでしたら、また別の生徒さんが
「それってマズローの欲求5段階で一番高い欲求の事ですよね」
と言ってきました。
僕としては自分の中でマズローの説と結び付けた事のない話だったんですが
「言われてみればそうだな」
と逆に納得してしまいました(笑)
なので、今回の
「欲が無くなると人間は幸せになるのか?」
というテーマですが、答えは「NO」という風になります。
ただし「欲の種類」や「持ち方」による・・・・・・といったところでしょうか。
な~んかね、むかし本で読んだここで書いたような「欲」に関しての事が当時はよく分からなかったんですが、「行」に入ってからは妙に腑に落ちるんですよね。
「欲」というモノは誰でもあってしかるべきですが、その本質を知りコントロールする事が重要なんじゃないかな~、と思います。
皆さんはどんな「欲」を持っていてそれはどれだけの「深さ」をもっていますか?
人生について本氣に取り組むならば「欲」について真剣に考えてみるのも良いかもしれませんね~
谷山 慶裕と言います。
自分が経験した事や学んだ事を元に「氣エネルギー」の重要性と楽しさを面白可笑しく伝えたいです。
プロフィールの詳細はコチラ
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