谷山です。
そもさん、せっぱ!
皆さん、今日も元氣に公案やってますか?
「公案」について知らない人もいるかもしれないので簡単に説明しておくと
禅宗で修行僧が参究する課題である。 すぐれた禅者の言葉、動作などを記録して、坐禅しようとする者に与え、悟りを得る対象とするもので、臨済宗では1千7百則とも言われる。
とWikipediaには書いてあります。
どんな事か分かりやすくいうと、師匠が普通に考えたら意味不明な質問を弟子に投げかけます。
有名なとこだと
「犬には仏性がない。では犬には仏性はあるのか?」
「両手で拍手するとパンと音がする。では片手ではどんな音がするか?」
ちょっと脚色、省略してる部分もありますが、こんな訳の分からない質問をされてそれに本氣で考えるのが「公案」です。
結論を言ってしまうと「公案」には答えはありません。
だって片手で拍手なんてできないでしょ?
普通の常識で考えて答えが出るようなものは「禅問答」にはならない訳ですね。
じゃあ、何の為にやるのか?と言いますと「思考の壁を破る為」と言えるんじゃないかな~、と僕は思うんです。
質問が質問ではない だから答えも答えではない
答えはないけど今までの常識の外から捉えてみると急に答えが湧いてくる。
なので「答え」は存在する。
よく分からないですね(笑)
今日はそんな訳の分からない「公案」を実際に生徒さんのレッスンで行った時に面白い事があったのでそれを記事にしたいと思います。
では行ってみよう!
自分の常識外に出るとき人は不快になる
僕はレッスンをする前に
「この人にはこういった事が必要だな~」
とレッスンの内容をイメージします。
その生徒さんのレッスンの前には
「この人はそろそろ常識破って貰わないとな」
というイメージが湧いてきたので僕なりの「公案」をしかける事にしました。
慶氣流の公案はブログでは公開できませんが、公案の内容としては
「昨日、家の前にいた宇宙人を捕まえて焼いて食べたんだけどどう思う?」
「よく見る夢は未来を表してると思うんだけどその夢は絶対に現実化すると断定するにはどうすればいい?」
みたいな訳の分からない内容をずっと質問し続けます(念のため言っておくと質問の内容は全然違います。これは例です)
もちろん僕は「答え」を知ってる訳ですが、答えは言葉で伝えられるモノではありません。
「氣付き」が必要になります。
でも、訳の分からない質問を投げかけ続けられると多くの人は「不快」な感情を抱く事が多いです。
「常識の外」というエリアは自分にとってセーフティエリアではないのでそこから出ない為に不快な感情を呼び起こして拒絶する、とも言えますかね。
その生徒さんもご多分に漏れずどんどん「不快なエネルギー」を発しはじめました。
「先生の言ってる文言は分かります。でも内容の意味が分かりません」
「先生だから分かるかもしれませんが自分には分かりません」
なんて言いながらどんどん不快な氣を発してますし、僕の質問に対するリアクションもどんどん塩対応になっていきます。
普通の会話だったら
「あ、この人不機嫌になっちゃった」
なんて思って会話を変えるんですが、今日は「氣付き」を得てもらうために公案を止める訳にはいきません。
そして質問を続けていくうちに生徒さんに変化が訪れました。
突然やってくる大きな「氣付き」
「その考え方はあなたは常識だと思ってるけど実は一つの見解でしかないんだよ」
「考えるんじゃない、感じるんだ」
みたいなちょっとブルースリー的な言葉も交えながら根氣強く公案を続けます。
遠隔レッスンだったのですが、時計を見るとレッスンが始まって一時間ぐらい経過した頃、突然スピーカーの向こうから
「アッーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
という声が聞こえてきました。
その声を聞いた瞬間に
「よし!いった!!」
と確信しました(下ネタじゃないよ)
脳の中に流れるエネルギーがジクジクと変化していって脳を活性化させてるのが手に取るように分かります。
そして百会が開き生徒さんが発してる氣が一氣に変わりました。
「これですか!先生はこれが言いたかったんですね!やっと今までの質問の意味も分かりました!すげえ!一瞬で世界が変わって見えます!」
なんて興奮冷めやらぬ感じです。
こういった大きな「氣付き」を得るとその後に小さな氣付きが怒涛のようにやってきます。
生徒さんは今までの人生を振り返って
「今までの自分の捉え方がどれだけ生きるのを難しくしてたか実感してます。」
と生き方すら変わるような氣付きが得られたようで良かったです。
「でも今の状態で今までの人生を見てみると××(秘密の言葉♡)でしょ?」
と聞くと
「そうですね~ その言葉が今はよく理解できます」
という風に人生自体を俯瞰して見れるようになりました。
そして最後に
「今は最高の状態ですけど明日になったら元に戻りそうで怖いです」
と言っていたので
「うん、戻るよ」
と言いました。
「戻る」という事が意識に上がったので少しだけ百会も閉じました。
こういった「氣付き」を得ても日常生活にまみれている間に今までの感覚に戻るのが普通です。
っていうかそうじゃなきゃ日常生活送れないしね~
ただ、一度こういった「氣付き」を得るとまたその感覚に戻る事が出来るようになるもんなんです。
「氣付き」?「悟り」?
その生徒さんに
「この感覚を(悟り)って表現する人いるけどどう思う?」
と聞くと
「そうですね、これは(悟り)ですね」
と納得した感じで答えてくれました。
この人
「悟りなんて自分には絶対到達できない 一部のレベルの高い人だけが到達できるモノだ」
と思ってるタイプの人だったんです。
そんな人でも
「これは悟りだ」
と認識するような感覚を感じてる訳です。
「この感覚を覚えた事で(私は悟った)っていう人が多いけど、これは悟りとも言えるし、単に氣付きとも言えるし、アハ体験ともいえるんだよね。だから別に特別な事じゃないってのも分かるでしょ?」
「そうですね、全然特別な事じゃなくて単に目が覚めた感じですね」
とその生徒さんが変な方向に行かないように話だけしてその日のレッスンは終わりました。
「私は悟った」と言って魔境に入ってしまう人もいますからね~
僕もその口でしたし・・・・・・(恥
これは「悟りを開いた」とかそんな話ではなく、単に「氣付いただけ」という話なんです。
もちろん、一度「氣付き」を得ると人生観自体が変わる事も多いので、そういった人は更なる「氣付き」を目指して旅が続きますしこれからも日常生活の中で苦しむ思いをする事もあると思います(実は氣付きを目指す、という表現自体が矛盾してるんですが)
でも、明らかにこれから生きていく「道」が変わってくるんです。
僕らの日常は氣付いてない事だらけだ、という事に氣付けると人生自体が好転していくんですよね~
皆さんも視野を広げて今まで氣付かなった事を意識に上げるとより軽やかに人生を送る事ができますよ^^
日頃からちょっとだけでも意識してみて下さいね!
谷山 慶裕と言います。
自分が経験した事や学んだ事を元に「氣エネルギー」の重要性と楽しさを面白可笑しく伝えたいです。
プロフィールの詳細はコチラ
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